昭和42年10月12日 夜の御理解


 今日は朝から色々様々なお取次が、そのお取次のたんびに教典を開かせて頂いて、もういつ開いても頂くところが「やれ痛や、今みかげをという心になれよ。」というところ。もう今日一日私を支えてくれた御教えなのです。私自身それを思いました。やれ痛やというのはね、叩かれて痛いと、腫れ物が出来て痛いと、というのと同んなじなんです。ですから、私共の心の中にいらいらがあったり、じかじかがあったりするのは心が、云わば腫れとるようなもんですよね。一寸触られるともうプリッとするとはありゃもうここが腫れとるとですよ。あいたっ、というのと同じことですよ。ほらもう膿みの出るごたる状態ですよね心が。だから、そういうような時、勿論様々な難儀を感じる時です、同時に自分の心の中に相手を感ずる時、介意を感ずる時、今こそめぐりのお取り払いを頂いとる時と思うたら、ほんとにいらいらするもやもやすることに対して有り難いですね。もう今日は、午前中はここで奉仕させて頂いてから、もうほんとに有り難かった。どういうような場合であってもこの御教えが私の心を支えて、私の心をいつも助けて下さった御教えです。皆もこのような気持ちになったらほんとに助かるだろうと私は思うた。
 丁度御祈念前に久富繁雄さんがみえられましたから、この頃から渡辺先生と久富さんと二人で部屋の模様替えがあっとりまして、軸をかえられたり置物をかえられたりなさった。ところが、どうも私が前を通ったりその部屋に行ったりしてから自分の心にピタッとこないものがあるんですね。こんなものをこげんとこに置いてから、といったようなものが。 これはもう各々の感覚でするのですからね。やはり私が住まわせて頂くからには私の気持ちにピタッと合わなければやっぱりいけないし、洋間の方へ何度も行ったり来たりさせて頂いてどうもこの壷はここに置いたような気がする。どこもこんな隅にこんなものを置いてというようなものを今日は繁雄さんと二人でずっと置き換えさして頂いたわけなんです。云わば私の心にぴったりというような具合にさせてい頂いたんです。まあ私の感覚が良いというわけでもないですが、私の気持ちにはぴったりです。そんなことを今日御祈念前にさして頂いて御神前に出らせて頂きましたらですね、御神前で御祈念に頂きますことはあれは不具者の方達ばっかりが車に乗ってスポーツをやりますね。運動会を。あらなんとか云うね、パラリンピック。不具者の方達ばかりが集まってスポーツを楽しむわけですね。そりゃもうどんなことでもされる。自由自在に成程半身不随、半身動かない片腕がどうといったような方達がもう実に普通の者でもできないような芸当をなさっておられる。そして結構楽しんでおられる。そういう情景をまざまざと御心眼に頂くんですね。ははあ今日一日の私の状態はこういうような状態だったなあと思うのです。心はもう兎に角、心が盲であったりちんばであったり、もうそれこそとうがはえておったり、不自由であったりというようなことでありますけれども、私の心の上にやれ痛や、今みかげをという心になれよという御教えが今日は自由自在に私の心を、云うなら徳の車に乗せて頂いておるようなもの。「     ]私のようなお粗末御無礼な者がという時には「    」そのことなんか全然無頓着。だから、そういう状態になったけれども、それがですね、世に中には何にも分からん。気が付かない、ぼんやりしたという人があります。どんなに散らかっておろうが、それがそこで平気でおれる。軸なんか何がかかっとっても全然問題にしないという人。だから、これではいけない。私共がですね、この部屋にはこういうものがこういう風に教導しなければ気持ち良く住めないと云うことが一応分かっとる。そしてその後にです。例えば、御神前でお三宝が汚れたらもう御祈念が出来んというくらいな私は自分自身というものを、云うならば深めて行く。自分自身の心の不具者ということが分かるということ。やはり深めること。そしてそれが自分の気持ちの通り、ぴったりいくところから神様と交流した。そこからお徳を受ける道が開けてくる。そこからは自由自在な、云わば自由無垢な心というものが頂けてくる。
 どういう中にあってもではなくて、それはひとつのその人が住まうところには、もうその人の心の中にはぴったり寄り添うてくるようなものその心に合うたもの、それがずっと自分の周囲にもたくさん出来てくる。極楽という人は、自分の人に仏様や観音様に云うならば、神様のような人達が私の周囲に沢山出来ること。そういう人達の中にあるから、私は極楽であるね。ですから、私共がいよいよ有り難くならせて頂くところに、その周辺にも又有り難い人がいっぱい出来てくるようなおかげを頂かせてもらうことが、云うなら理想なんです。ところが、なかなかそうとばかりはいきません。どうも気分に合わないということもある。子供が云う事を聞かんと云うてはいらいらする。自分の思うようにならなかったらもやもやする。そういう中にあって、私共が今日、私自身がおかげを頂いたように、やれ痛や、今めぐりのお取り払いを頂いとるんだと。だから、今日はもう私は来る人毎にその御理解を解かして頂いた。それは問題の様相というか、内容はそれぞれに違う。今日はいよいよ医者が難しいように云う。ですから、今家族中で病院にこのまま入院する。そして果たして元気で帰ってこられるかどうか分からんというような不安の状態の中にお参りして来た人があった。
 だから、その方にも私は云った。心配しなさんな。そういうような難儀な時にそういう大きなめぐりのお取り払いを頂いておると思うて、そのことに対してもう子供も奥さんもですね、もう目に涙いっぱいためて今から病院に行きよりますとこういう。
 主人があちらの方へ参りますから、このことを言って下さい。ほんとに病院に行きよりますけれども、さ、手術が本当に手術が順調にいっておかげを頂けば別ですけれども、無事に帰って来れるかどうかも分からないというようなお届をして行きよる。
 それでもそういうお取り払いを頂いておる。そのことに対するお礼を申し上げる心になったら不安も無い。悲しむ事もない。お取り払いを頂いておる。いやあ、おかげをいただいとる。「 以下聞き取り不明     」